広島経済レポートの記者が注目する旬の話題をコラムで紹介。
広島にはいいものがある。
人口120万人規模の地方都市で珍しい。カープ、サンフレッチェ、ドラゴンフライズなど市民に愛されるプロスポーツチームや、広島交響楽団が活躍し、美術館は公私立4館を数える。瀬戸内の魚、日本酒もうまい。先人の先見が花を咲かせたものもある。
被爆80年。ひろしま美術館は平和へ祈りを込めたコンサートのほか、7月19日から8月末まで西側回廊で各国の子どもたちがピカソの作品と同じ大きさで描いた「キッズゲルニカ」を展示する。7月27日に本館ホールで広響コンサート、8月4日は、ひろしま平和文化大使を務める原田真二さんのトーク&ライブ、続いて6日は安塚かのんさんが被爆ヴァイオリンで演奏する。入館料は必要だが、いずれも無料だ。
広島銀行が創業100周年を記念し、1978年に同美術館を開館した経過に被爆の惨状を目の当たりにした一人の行員の夢があった。頭取を務め、初代館長となった井藤勲雄さんは8月6日の惨禍から辛うじて生き残り、2日後には本店営業部課長として同じく生き残った副頭取らと旧日銀で営業を再開し、窓口業務に当たったという。被爆で亡くなった行員は144人に上った。
政令指定都市へと発展を遂げ、街の風景は国内外から訪れる人に称賛されるまでに美しく豊かに生まれ変わった。絵画鑑賞が好きだった井藤さんはある日、日本画の掛け軸に心が安らぐ。そして多くの人の心が憩い、安らぐ場を提供したいと思った。その日の経験が広島に美術館を開きたいという夢へとつながり、駆り立てられたのだろう。
あるいは金融マンのアンテナも働いたのか、収集・展示する作品は日本人に好まれ、比較的分かりやすい印象派の絵画と定めた。東京・銀座の日動画廊で紹介されたルノワールの絵「麦わら帽の女」も印象派へ傾くきっかけとなった。そうした井藤さんの生き様は日動画廊(東京)の長谷川智恵子副社長著作「瓦礫の果てに紅の花」に詳しい。
構想十数年、〝愛とやすらぎのために〟をテーマに収集された作品群には世界的名画も多数ある。いまでは入手困難な作品も少なくない。5代目の池田晃治館長は、
「これら有数のコレクションを守り、後世に伝えるべく歴代館長からつなぐ使命をしっかりと果たしたい。海外出張で欧米の一流経済人らと接すると、ごく自然と音楽や芸術が話題に上る。理系の学生も芸術を学ぶ風土がある。金融や経済の知識だけでなく、リベラルアーツを学ぶ必要を実感する。生成AIが台頭し、AIアートがオークションで高額落札され話題になる時代だが、AIは膨大なデータからの推論でしかない。美術館は画家が命を削る思いで描いた作品、人間の持つ本質的な生きる力に直接向き合える。市内にある身近な美術館で本物に触れていただきたい」
日ごろの仕事で左脳の思考に偏りがちだが、本物に接して無から有を生む右脳の感性を活性化し、心のバランスを保つことが、ますます大切になってくるという。
同美術館は市内小学校1〜6年生を毎年バスで招待。年4000人前後の子どもたちが本物に触れる。今夏は市内42校の高校生を7月19日〜8月末の夏休み期間中、学生証を提示すると入館料を無料にする。高校生は初めて。ふるさとを愛する若い人が一人でも増えるよう願う。
日本の政治には国家百年の計がない。松下幸之助は84歳の時、指導者を育成する松下政経塾を立ち上げた。よほどその頃の日本の姿に危機感があったのだろう。
1979年の設立来、今日まで各界に多くの指導者を輩出している。創成期から運営に携わり、塾頭などを務めた上甲晃さん(83)は、
「その頃はまだ貧しく、物質的な豊かさはもちろん、精神的に豊かな日本を目指していた。わが損得を超え、人間にとって本当の幸せは何かと考える政治家を育てたい。幸之助にとって一番の願いだったように思う。いまはどうだろうか。国を背負う政治家は自分の言葉で国家の理想、目標を語り、行動を起こす。その気構えを鍛え、いざというときに敢然と立ち向かう精神、識見を備えておく。幸之助は世界に誇れる日本のリーダーや政治家、経済人、文化人らが活躍する時代を描いていたのではなかろうか」
まずは志だろう。どんな国にしたいかという志がなければ、やがて国が立ちゆかなくなると危惧する。
1965年に松下電器産業へ入社し、広報や販売を担当した後、81年に(財)松下政経塾に入職。幸之助と十数年にわたり仕事を共にして政治家や経営者を育ててきた。これまで培った経験を生かし、95年に退職後、(有)志ネットワークを設立し代表に就任。政治家だけでなく、「志の高い日本人」の育成を目的に掲げ「青年塾」を設立した。
知識を頭に詰め込む座学ではなく、実践が中心。戦争を学ぶのなら知覧(鹿児島)に出向き、公害を学ぶのであれば水俣(熊本)で患者の体験を聞く。本物を見る。本物に触れる。そうこうするうちに物事の向こう側を洞察できるようになるという。これまでに青年塾の門戸をたたいた塾生は2000人に上る。
「決して知識を否定するわけではない。だが、それは全て道具に過ぎない。道具を使う人の考え方が正しく、正しく道具を使わないと到底、実社会で通用しない。だから人間の勉強をしなさいと幸之助から厳しく教わった。青年塾は〝人間力〟を鍛えることを一番の目的としている。これは磁石の磁力のようなもの。周りの人のために一生懸命に取り組む熱心さ、志が人間の魅力をより高めてくれる」
一方で、全国にいる塾生が自らの地域で青年塾を立ち上げるという運動を始めた。今年5月、1番目の地域版青年塾が茨城で発足。続いて「広島青年塾」準備委員会を設立した。8期生で、CIA(中区)社長の長岡秀樹さん(50)を中心に委員会を組織。6月7日、上甲さんを招いて講演会を開き、約100人を集めた会場で来春の開塾を宣言した。長岡さんは、
「日本人の道徳心や美しい国土、歴史、伝統を挙げ、日本はよい国であると幸之助は語っている。日本の姿を守り伝えるために何をなすべきか。広島青年塾では私の出身地である三次で自然を生かしたカリキュラムを予定。西南戦争では最後まで西郷隆盛に付き従った増田宋太郎が手記に残している。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず…、いまは善も悪も死生を共にせんのみとある。いかに西郷が人から慕われたか。これほどまで慕われる魅力を持った人間の姿こそ、幸之助もまた人づくりの手本としたのではないだろうか」
世界が混迷する中、誰が日本丸のかじを取るのか。
もう猛暑の頃か、7月20日には参議院選挙の投開票で各党の勢力図が定まり、果たして政局が動き出すだろうか。
一段と世界情勢がこんとんとしてきた。トランプ関税の衝撃に右往左往し、世界各地で武力紛争が頻発する。平穏な日常とかけ離れて「なぜか」といぶかるほかないが、国をリードする政治家の見立て、心境はいかほどだろうか。
もっぱら総理再登板がささやかれている。支持率低迷で不本意にも再選断念に追い込まれた岸田さんが再登板に向け気力、体力を充実。すこぶる元気という。日本公認会計士協会(東京)の新・旧正副会長ら幹部が広島に集まり、6月15日に「岸田先生を囲む会」があった。
この会は当時、同協会の中国会会長を務めていた公認会計士の石橋三千男さん(77)が中国会会員に呼び掛け、2013年春に結成。定期的に開いていたが、岸田さんが21年10月に第100代総理大臣に就任し、併せてコロナ禍でしばらく開催を控えていた。
当日は、協会の手塚正彦前会長、茂木哲也会長、7月に新会長に就く南成人氏ら8人が出席。トランプ関税ほか、ロシアとウクライナ、イスラエルとイランなど武力紛争をめぐる世界情勢が話題に上った。これから先、世界はどうなるのか、誰一人として的確に予測することはできないように思えるが、岸田さんは、
「日本にとって大変重要な問題で手を尽くしている。日本としてやれることをしっかり取り組んでいくしかないでしょう」
差し障りのない答えのようだが、誠実な岸田さんの人柄が伝わってきたという。
総理在任中の3年間に経済成長を軌道に乗せ、賃金アップや資産運用立国を打ち出すなど「新しい資本主義」の姿を描いた。安全保障分野などで多くの実績を残したと評価する声は多い。
高姿勢や低姿勢ではなく、「正姿勢」を信条とし、向こう受けを狙ったような言動は少ない。一寸先は闇という。思惑や駆け引きが入り乱れる政界にあって、常に正しく物事と向き合い、正しく事態を見通すことは並大抵でないだろう。石橋さんは、
「まさしく公認会計士にとっても正姿勢こそ大切と思う。数字にはどういう意味があるのか、読み解く力を日々鍛錬していく正しい姿勢が求められている」
と共感を寄せる。岸田さんへこんな提案もぶつけた。
「法人に全国100支店があれば、支店ごとに国に対して法人税、県には県民税、市町村に法人市民税などの申告と納付を必要とする。これらの課税基準は法人税の課税所得なので消費税と同様に国だけに法人税等として申告、納税することにすれば、納税者の事務負担のみならず、大幅な行政コストの削減が可能になる。まずは税法の〝棚卸〟が必要ではないか。租税法律主義は国民が理解できるものでないといけない。これを手始めに法律と制度の棚卸をして人的資源の有効活用、社会の効率化、行政コストの削減が必要ではないか」
岸田さんは「そういう諸々の検討すべき課題がある」と受けた。よくぞ臆することなく専門分野のテーマをぶつけたあたりが、いかにも石橋さんらしい。一方で、じっと国民の声に耳を傾け、どんな時もとことん話を聞く根気があるという岸田さんらしいエピソードに思える。お二人の正姿勢に相通じるところがあるのだろう。
筆生産量全国一の熊野町で筆の日の3月20日、画期的なイベントが話題を呼んだ。
熊野町商工会の有志でつくる「熊野町の観光を考える会」(34社)は、タイの三輪タクシーで有名なトゥクトゥク2台を繰り出し、筆の博物館「筆の里工房」と仿古堂本店横の観光案内所「筆の駅」を循環。朝9時から午後3時まで15分刻みで走り、家族連れやカップルら130人余りが、春の風を受けながら熊野のまち巡りを楽しんだ。土屋武美会長(晃祐堂社長)は、
「試運転を重ね、当日は保安員も同乗し運行。何より安全面を確保し無事終えることができた。熊野町は交通の便に課題があるためか、素通りされることが多い。何かできることはないかと考えた。町には榊山神社や光教坊の大イチョウなど魅力的なスポットが点在。当会は以前、彼岸花を植える活動や一般から募った花木の穴場を観光マップに仕立てた。ここらを自由に回遊できる交通手段の検討を重ねていた。筆の日を盛り上げたいと、参加した仲間の絆が深まったのも大きな成果。できることから始め、今後は町を周遊する仕組みを構築し、軌道に乗せていきたい」
トゥクトゥクのハンドルは有志が握った。商工会の補助金や車体広告などで協賛も募って運営資金を賄った。マイクロモビリティ実証実験事業として手応えを得たことから来年の実施を見据える。
6月4日にあった「クマノ・クリエイティブ・パレット(KCP)」の今年度の第1回会議で成果を発表。KCPは、文化芸術のまちづくりを目指す町が筆の里工房向かいに建設中の観光交流施設を拠点に、さまざまなジャンルで創作に励む人の輪を広げ活性化につなぐ活動。「手仕事の町」としてハンドメイドのワークショップも開き、人が集まり、交流を生む起爆剤の役目を担う。▽自然▽街歩き▽中心エリアの活性化▽町を巡るアクセス―の四つの分科会も設け、来年度開館に向け準備が進む。筆の里工房が事業を受託。
町は熊野道路の無料化や新しいバイパス整備などを受け宅地化が進み、人口は社会増の傾向を示す。観光振興の整備が進めば、人が人を呼ぶ好循環も生まれる。国が指定した伝統的工芸品の熊野筆は海外からの来訪者も十分に満足させる奥深さと魅力がある。こうした資源を生かし、熊野筆生産者をトゥクトゥクで巡るツアーがあってもいい。
土屋会長を補佐する丸山長宏副会長(瑞穂社長)は、
「事業の実働に当たっては町の交通や安全に知見のある外部関係者に都度、壁打ちしアドバイスを求めた。〝共創〟の意識が大事だ。会のメンバーとは共通の目標と価値観の〝Same Page〟を共有しながら話し合い、企画を進めていった」
何よりゼロから一歩踏み出す実績をつくり、次に向かう原動力となったよう。くしくも二人とも熊野筆づくりが家業の家の〝入り婿〟さん。共に県外出身で異業種から伝統産業を継承する宿命と出会ったのだろう。
革新は「よそ者・若者・バカ者」が起こすといわれる。既成概念に縛られず、自由な発想で新風を吹き込む。「経営の神様」と言われた稲盛和夫も彼らの存在を活用していたと伝わる。失敗を恐れずチャレンジし、向かい風に向かって突き進む。その担い手が人を動かし、組織を動かす。革新は周囲を巻き込む情熱、夢から大きく動き出す。
たとえ黒字経営であっても求人難などの人手不足による倒産が急増。帝国データバンクによると2024年度の人手不足倒産は342件で前年度の260件に比べて1.3倍に増え、2年続けて過去最多を大幅に更新した。
総務省が発表した日本の総人口は24年12月1日現在の確定値で1億2374万人。前年同月比で55万5000人減少し、うち15〜64歳の生産年齢人口は21万6000人減った。象徴的なデータがある。日本人は89万人減ったが、外国人は33万人超と10%以上増えた。
24年4月から運送業も時間外労働の上限規制が適用された。海に囲まれた日本は単一民族で歴史を刻み、発展してきたが風向きが変わり、このままでは現場がまわらなくなる先も増えそうだ。
02年に設立以来、累計8000人を超える技能実習生・特定技能外国人を受け入れてきた西海協(協)(安佐南区伴南)は全国の先陣を切り、外国人トラック運転手の受け入れに踏み切った。7〜9月で計15人のベトナム人男性が免許取得に挑み、特定技能運転手として公道デビューを目指す。池田純爾理事長は、
「これまで主力に受け入れてきた製造業向けの外国人材市場は飽和状態で、安定した成長に臨み職種や業種を広げる必要がある。先行する介護分野や、物流24年問題を機に運転手不足に拍車がかかる運送業に加え、今年12月に倉庫業を特定技能分野に追加する道筋も見えてきた。こうした業種の外国人材需要に応えていきたい。初めて受け入れる運送業分野では運転適性の見極め方・安全性を担保した上で免許証取得はむろん、どのように営業運行につなげていくかなど課題は多い。レベルの高い安定した教育を行って、受け入れ先から歓迎される体制を構築していきたい」
国際的な人材獲得競争も激化する中、人手不足分野の人材育成・確保を目的に技能実習制度を発展的に解消し、いよいよ「育成就労制度」が27年度から始まる。海外から選ばれる日本になれるよう組合運営そのものを変革し、時代が求める体制確立が急務になってきたという。
省人化や省力化、DX、AI活用などが進展。しかし物流業や建設業、介護現場などでは人の手でなければ困難な業務も多い。県外国人介護人材協会の坂本尚己会長は、
「いま介護施設の70%が人材不足に直面。EPA(経済連携協定)や技能実習など四つの在留資格で介護職に就く県内の外国人は約3700人。さらに外国人を起用する動きが加速してきそうだ。今年4月には訪問介護も解禁された。高齢者人口がピークを迎え、一方で現役世代が急減する40年代には日本人だけによる介護は一層困難になると予測される」
在留資格を持った外国人は昨年末で376万人超と過去最多を更新した。うち技能実習と特定技能で74万人超。長く働きたいと望む外国人材を受け入れるインフラ整備や支援体制をどう整えていくのか。池田理事長は、
「言葉や生活習慣、文化に違いはあるが、人として成長を実感できる働き方をしたいと思う心に違いはない。安心して働き続けられる。やりがいのある人生設計を自由に描くことができる。そうした共生社会実現へ少しでも役立つことができるよう尽力したい」
制度が変わろうが、相互に信頼できる人間関係こそ共生社会の土台と力を込める。
元気で、生涯現役が一番いい。好奇心いっぱいに好きな仕事をするから、いつまでも元気なのだろうか。むろん経済力にも左右されるが、定年後に悠々自適で家庭菜園もいい。だが、定年後に転職。仕事の経験、能力を生かし、再雇用された職場で大きく花を咲かせる人もいる。
ディー・エヌ・エー連結子会社でヘルスケア事業のデータホライゾン(西区草津新町)の顧問を務める吉原寛さん(80)は、大手製薬メーカーを退職後、関連会社などを経て63歳で同社へ転職。創業者で当時社長だった内海良夫会長から入社早々、大きな使命を託された。
「わが社はITの技術力を活用して医療分野へ本格参入したい。そのために医療関連領域のレベルアップを図ってほしい」
縁あってシステム開発会社に飛び込んだが、まったく畑違いで一体何をすればよいのか、戸惑いがあった。しかし創業者のその言葉が響いた。その日から予防医学領域の情報収集にフォーカス。いつしか会社にとって、いなくてはならない存在となった。
研究者になりたかったが京都大学卒業後、製薬メーカーでは新薬の営業を後方支援する部署などで活躍し学術部長を最後に定年。大手ならではの雇用環境や福利厚生になじんだ会社生活から一変した。退職後に医学出版、治験支援の会社に勤めたが企業文化の違いを痛烈に感じたという。
転職を重ね、ようやく縁に出会った。内海さんの目利きか、一言でやる気にスイッチが入った。まずは広島大学大学院に聴講生として1年間通い予防医学指導士、その後、健康アドバイザー、医療事務管理士、メンタルヘルス推進指導員の資格を次々に取得。
製薬メーカー在籍中は薬剤師、衛生検査技師、英語検定を、転籍後は千葉大学大学院の社会人院生として業務の傍ら研究に励み、薬学博士号を取得している。その向学心は衰えず、昨年10月には3年越しの挑戦で医療情報技師認定を受ける。医療情報システムの開発・運用・保守や情報の利活用などを推進する医療分野専門技師として居場所を見つけることができた。
「私に託された使命は何だろうかと考え続けた。当社は医療情報データを活用し、健康寿命の延伸と医療費適正化に役立てようとまい進。いまは主力のデータヘルス関連事業の中核となる糖尿病性腎症の重症化予防関連事業を重点目標としている。広島大学の予防医学指導士の講座は本来、看護師や保健師、管理栄養士を対象としているが、やる気満々ですと猛アピールし、受講にこぎ着けた。主力事業に役立つために何が必要か。そこから行動に移し、その都度にチャレンジしてきた」
社内で、生活習慣病や糖尿病などに関する基本的な知識を余すことなく伝えている。定期的に学会にも足を運び、最新の医療情報を収集。フィードバックしている。
一定の年齢を超えてからは毎年、今年で契約終了かと備えていたが、傘寿を迎えて再雇用されることになり、一番に私が驚いたと話す。現在は週2〜3日ペースで必要に応じて出社。元気だ。
定年退職後の人生をどう描き、どう生きるのか。全ては自分次第。自分で切り開く心構えと決意さえあれば、好きな道を歩むことができる。吉原さんは「若い人たちと働くと多くの学びがあり、パワーももらう」と屈託がない。さて、どうするがいいか。
おいしいものを食べてもらいたい。しかし良い材料を使えば値段は青天井。安さを追うと味が落ち、客は離れる。ふらっと寄って安心して注文し、いつもの味に満足し、また来ようと思ってもらうには「材料の品質とコストとのあんばいが決め手」になる。飲食店にとって、本能ともいえる経営感覚なのだろう。
市内中心にうどん・中華そばと和菓子の店をチェーン展開する「ちから」(中区)が6月10日、創業90周年を迎える。京都の餅と麺類や丼物を出す大衆食堂「力餅」で経験を積んだ創業者の小林角蔵さんが、のれん分けして店を構えた実兄に影響を受け、同じ道へと進んだのが始まり。
大阪の店で餅の製造法やうどんだしの取り方を覚え、広島へと進出。物資の乏しい戦時中も入手できる材料で乗り越え、決して化学調味料は使わない。昆布や削り節など天然素材に徹しただしで、ちからの味をつないできた。4代目の小林正記社長は、
「誠実に、うそをつかず、真面目にやってきた。むろん、おいしいのが命。ちからは決して高級志向ではない。だが二、三代にわたり通ってくれる顧客も多い。学生時代から通い、その後に社長になっても顔をのぞかせてくれる。商いに偽りがないと分かっていただいているのではないかと思う。適正な価格とおいしさ。これがなかなか難しい」
しかし今年1月、ちからの味を支えてきた利尻昆布の水揚げ量が壊滅的となり、必要な使用量の確保が困難になった。何とか味を維持しようと1月22日の製造分から、真昆布を25%配合するだしに切り替えた。HPで詳しく説明し情報開示している。
うどんだしは、利尻昆布と京都の老舗削鰹節製造卸売の福島鰹から仕入れる専用の削り節と、1935年創業から使い続ける兵庫の龍野しょう油を使う。だし職人5人衆が変わらぬ味を届ける。2010年からモンドセレクション優秀品質賞を連続受賞。
「客観的にだしを評価してもらうことで何が足りないか、どう改善すればよいか気づかせてもらえる。応募の目的は果たして味が維持できているかを確認するため。健康志向などトレンドを意識しても基本を変えるつもりはない」
人気の肉うどんに使う牛肉の部位も、コストはかかるが肩ロースにこだわる。
現在店舗は市内に26、呉と廿日市で計28店を配す。中区の工場から、朝作ったものをその日のうちに各店に配送する。味を落とさないため出店エリアを広げるつもりはない。規模拡大を経営指標にせず、味の維持に軸足を置く。
一方で、長く働いてほしいと雇用を維持する制度へ見直しを図った。4月から評価制度を導入し、給与に反映。フルタイムで週5日以上働く正社員が30人に対し、時給で働くパート従業員は220人に上る。その85%が女性。子どもの急な病気などにも、休みが取りやすい職場環境が定着し、支持されていたが、有休に対して欠勤の扱いが不明瞭になっていたという。
「ちからの企業文化と風土になじんでもらうことが新制度の一番の目的。数年前からより意欲の湧く評価制度を考えていた。ようやく始動する」
調理場は男性が受け持っていたが、いつの頃からか女性も当たり前に。コロナを契機に接客も会計も一人三役を明文化し、生産性の高い店舗運営を軌道に乗せた。
老舗が姿を消す中、末長く看板を守り続けてほしい。
かつて人の営みがあった建造物が時の経過とともに朽ち果て、当時の面影を残しつつもまったく異質な景色が全国各地に点在する。変わる前と後が重なり合う「あわい」の時をどう捉えるか。その時を写真に残した特別展「軍艦島と雜賀雄二」―副題「死を生きる島」を撮り続けた写真家―が呉市立美術館で開催されている。6月15日まで。
長崎市野母崎沖に浮かぶ通称〝軍艦島〟の端島はその異質な風景の一つ。1810年偶然に発見された石炭から端島の歴史が始まり、海底炭鉱として日本の近代化と戦後の経済成長を支えてきたが1974年1月閉鎖が決まる。
周囲1・2キロメートル、面積6・3ヘクタールに炭鉱施設と住居がひしめき最盛期に東京都心部より人口密度が高い5300人が暮らしていたが閉鎖とともに無人島になった。その年の1月にテレビ報道で知り、カメラを手に軍艦島に降り立つ。
雜賀氏(74)は12、3歳の頃、百科事典で軍艦島の存在を知り、その特異さに強く引かれた。閉鎖前の姿を一目見ておきたい。大学在学中に独学で写真を学び、閉鎖前年にキリシタンが住む長崎の島に渡り撮影するようになっていた。軍艦島へ毎日のように通い、住民らと交流しながら無人となる4月20日までの日々をカメラに収めた。 以降もたびたび訪れ風化で変貌する姿を撮り続ける。
同美術館が1996年度に雜賀氏の作品「月の道」3点を購入した。その作品は月の光の下、長時間露光で写し取られた海と岸壁が不思議な異世界に誘う。その後、2022年の開館40周年を前にコレクションの拡充に踏み切ろうとした矢先、雜賀氏からプリントをまとめて譲りたいという意向が届く。まさに絶妙のタイミングになった。横山勝彦館長は、
「呉市は旧海軍の軍港都市として発展し、戦後は平和産業港湾都市に転換されて復興した歴史を持つことから、当館は海と港をテーマとする写真作品を収集。20年には海と共に生きる―をテーマに戦後を代表する写真作家18人のコレクション展を開いた。月の道3点も展示。チケットにも採用し、好印象を持っていただいていたようです」
1987年には写真集「軍艦島―棄てられた島の風景」で芸術選奨新人賞を受賞。高く評価されている。
5月18日、雜賀氏に出展作品に関するエピソードや写真家としての活動について語ってもらうトークイベントがあった。美大の教授も務め、大勢の学生の前で磨いたトークは時には笑いを取り、会場いっぱいに埋まった参加者を引き込んだ。終了後、大分から駆け付けたという男性が軍艦島で生まれ11歳まで暮らしたと明かし、「住んでいた31号棟(RC造5階建て)が鮮明によみがえった」と振り返った。写真の風景がよほど感慨深かったのだろう。
「こうした予期しない出会いが美術館にあることを思えば作品鑑賞だけでなく、いろんな企画にチャレンジしていく価値があり、公立美術館として新たな可能性を広げていきたい。美術館を通じて、呉の良さ、歴史、風景の魅力も広く発信していきたい」
と意欲をにじます。昨今の廃墟ブームのはるか前から軍艦島を見続け、作品にしてきた雜賀氏は、
「軍艦島のファンは全国に散らばっている。微力ながら私の作品が全国から呉に足を運んでもらえるきっかけになればうれしい」
住宅業界が重大な転換期を迎えている。4月末に国土交通省が発表した2024年度の新設住宅の着工数は81万6018戸。前年度比2%増と3年ぶりプラスに転じたものの、06年の約129万戸に比較すると約60%の水準まで激減している。何より人口減少による影響が大きく、さらに業界の生き残りを懸けた厳しい戦いが続く。
12月で創業40周年を迎える創建ホーム(竹原市)は24年12月期で売上高84億4000万円を計上。これで4期連続増収とし、過去最高をクリアした。ハウスからライフへ。新たな旗印を掲げ、リフォーム分野や家具・インテリア販売のほか、外構・エクステリア工事などの周辺事業も手掛ける。水回りなど小中規模の改修工事を手掛ける子会社の住宅工房創(東広島市)は前年比9.8%増の5億2000万円を売り上げる。衣食住に視野を広げ、今期決算でグループ年商100億円突破を目指す。
どんな創意工夫があったのか。創業者の山本静司会長(78)は、1985年に人口が増え続けていた東広島で創建設工業を起こす。87年には竹原に創建ホーム本社を構える。数字はむろん、小さな出来事もおろそかにすることがなく、隅々に目の行き届く経営を心掛けた。130人ほどいた社員の日々や週間の行動予定などの確認を一日たりとも怠ったことがないという。よほど基本動作を徹底したのだろう。創業来、黒字を続ける経営基盤を築き上げた。
2023年12月に2代目を継承した長男の山本慎社長(52)は、
「役員から新入社員まで全員が一丸になり、良い緊張感の中で責任感を育んできた。こうしたたゆまない日々の積み重ねで創建ブランドを創り上げることができたと自負している。累計7500以上に及ぶ顧客の思いを一つ一つ形にしてきた経験は、何事にも代え難い財産です」
創業精神を引き継ぎながら40周年を「第二創業期」の出発点に位置付ける。
「時代のニーズがどこにあるのか洞察し、そこに事業を合わせていく工夫、変わる勇気を持つことが大切と教わってきた」
県央に位置する東広島を重要拠点に据え、本部移転のプロジェクトを推し進めた。21年に開業した複合施設「ライフ&カルチャーマーケット L/C」はリフォームやインテリア、エクステリアまでワンストップで提案できるようにした。衣食住を巡る多様なイベントも開く。幅広い顧客との接点づくりに生かすとともに人材の確保、育成にもつなげているという。
「本部と複合施設でしっかりとした営業体制を構築。支店を置く広島や竹原、三原、福山エリアに波及効果が生まれると見込んでおり、徐々に成果が見えてきた」
24年の供給数250戸のうち、東広島は97戸の実績を挙げる。21年立ち上げたブランド「創建リフォーム」は定期イベントなどで認知度を高め、売上高11億8000万円を計上。家具販売は法人営業にも取り組み、1億4000万円を売り上げた。
誰もが意見を出しやすい職場環境にも心を配る。役員とワンオンワンで面談をする機会を年数回設ける。新卒・中途採用を合わせて期末までに35人増のグループ総勢200人を計画。若手の役員登用も進める。高々と〝創建イノベーション〟を掲げ、第二創業へ踏み出した。
鯉城とも呼ばれる。カープのほか、その名を冠した会社や商品も多い。広島城を築いた毛利輝元没後400年を記念し命日に当たる4月27日、城の二の丸から南側の緑地帯に建立された輝元公銅像の除幕式が開かれた。
広島の南北を貫く鯉城通りと東西をつなぐ城南通りが交わる堀端に立つ。台座も含めて約4㍍の高さ。その姿は築城の地と定めた広い島を指差す。天正17年(1589年)の頃、37歳の表情は決意と意欲を示し、りりしい。
二葉山、牛田の見立山、己斐の松山(旭山神社)に登り、見渡す遠浅の海に浮かぶ江波島、吉島、仁保島、比治島などのうち、最も広い島を選んで広島と命名。ここに流通、経済の拠点を備える構想を描いていたという。やがて町を形づくり発展の礎となった。
父隆元の急逝により、わずか11歳で毛利家14代当主に就く。祖父元就の死後、毛利両川と呼ばれる叔父の吉川元春、小早川隆景に補佐されて中国地方9カ国112万石を領した。だが、1600年の関ヶ原の戦いで敗軍となり、長州萩へ減封された。築城から約10年で広島を去る。
山口県の萩城跡には輝元の座像がある。大阪城に豊臣秀吉、熊本城に加藤清正、仙台城には馬上に雄々しい伊達政宗の像がある。昨夏、輝元公銅像建立プロジェクトを立ち上げ、クラウドファンディングなどで資金調達に奔走した市民団体「広島城天守閣の木造復元を実現する会」の大橋啓一会長(ひろしま美術研究所校長)は、
「私も含め、戦後生まれは8月6日の被爆を記憶に刻み、平和の尊さを学ぶが、それ以前の広島の歴史にやや関心が薄かったように思う。歴史を知り、郷土に誇りを持つことは大きな自信につながる。どこの国、地域だろうと生まれ育ったところの歴史を大切にしている。いまは国内外から広島に多くの観光客も訪れるようになり、郷土愛とともに歴史を語ってほしい」
資金はクラウドファンディングと県内中心に69社と個人200人から目標の1000万円を大きく上回る約2500万円が集まった。残った支援金は広島城天守閣の木造復元へ向けた活動に役立てたいとし検討する。
「都心部の再開発が進展し、広島城の周辺でもサッカースタジアムやゲートパークが整備された。都市機能の重層化とタイミングを合わせて広島が歩んだ歴史をひもとき、いまと重ね合わせながら時代を超えた街づくりの夢を描き、誇りを育んでもらいたい」
輝元像の西側に位置する広島城三の丸の整備(市のパークPFI事業)に取り組む11社共同事業体「広島城アソシエイツ」代表法人の中国放送の宮迫良己社長は、
「広島は築城から約350年後に被爆で焼け野原となり、その後輝かしい復興を果たした。そして戦国時代からの激動期を生き抜いてきた毛利家代々でつなぐ文化や郷土愛を教訓とする輝元公銅像をランドマークとし、永く後世へ伝えてもらいたい」
3月末に開業した三の丸1期商業施設には武家茶道・上田宗箇流監修のSOKOカフェがオープンした。カジュアルな空間でお点前体験などを通じ、武家文化に触れることができる。来年には歴史館が開館する。広島城の歴史や近世の広島の歴史・文化をテーマにした新たな博物館施設になる。歴史や文化があるから人の暮らしがあり、新たな歴史を刻む価値がある。
その時の、市の着眼に間違いはなかった。昭和時代に17年をかけた「西部開発事業」は1966年に庚午、草津、井口沖の海面埋立事業に着手し、82年に竣工。過密化する都心の再開発や交通渋滞の緩和、流通機能高度化を目的に事業費1056億円を投じ、総面積328ヘクタールを造成した。
埋立竣工後、地区内の事業所数と従業員数は大きく増えた。2021年には事業所数856、従業員数1万9328人(事業所統計より)。西日本有数の流通団地へと発展を遂げる。
地元卸を中心に組合員203社を擁する(協)広島総合卸センター(伊藤学人理事長)が今年12月で創立50周年を迎える。国の高度化資金を導入する集団化事業で団地づくりを引っ張ってきた。竣工から40年余。施設老朽化が進み、16年に「卸団地の将来に向けての提言書」を市へ提出。10年間にわたる議論を重ね、ようやく3月に市が「商工センター地区まちづくりビジョン」をつくった。
団地中心部の広島サンプラザ(経過年数39年)、市中小企業会館(同45年)と総合展示館(同44年)などの主要施設を改修して再配置する。広島の「西の玄関口」として「MICE(マイス)」施設を新設するほか、陸と海の玄関を備える交通機能の強化、国内外から観光客を呼び込む、にぎわい創出の三本柱を建て、一体的な街づくりを目指す。
まず、耐震性が確保されていない中小企業会館・総合展示館の移転更新のため「MICE施設」(展示室約6000㎡と会議室約800㎡)を第五公園へ整備し、その後に展示館解体。同公園を改修。中央卸売市場に併設するにぎわい施設の整備と歩調を合わせて進め、おおむね10年以内に整備する。展示室、会議室規模は需要調査を踏まえて算出。今後の需要に応じながらMICE施設の拡張を検討する。
次に、MICE施設による民間投資誘発などを踏まえ、ホテルなどが整備されるタイミングで中小企業会館・本館を解体。「ホテル」などの整備後に広島サンプラザ(本館)を解体。おおむね15年以内の整備を見込む。
地区内の事業者や住民が日常的に交流する「アクティブセンター」などを一体的に整備。ペデストリアンデッキは駅からMICE施設→ホテル→草津漁港へ延伸する。
市が進める広島型の新たな公共交通システム構築の動きと歩調を合わせながらヒトやモノの動きを支える交通機能づくりに取り組む。地区内の多様な交通モードの利用や地区外施設とのアクセス、飲食店や宿泊地などを含めたシームレスな移動を実現するMaaSの取り組みを推進。自動運転や超小型モビリティ、「空飛ぶクルマ」などの新技術を活用した交通DX・GXについても関係者と連携しながら将来的な課題に挙げる。
草津漁港へ観光船を誘致して海からのアクセスを確保しにぎわい創出につなげる狙いだ。まずは宮島や原爆ドームなどを結ぶ社会実験に取り組み、次に不定期観光船の運航によって周辺観光地とのネットワーク拡大を図る。来街者向けの飲食・物販施設などが立地できるようAゾーンの規制緩和を必要に応じて段階的に取り組むとしている。
時代が移り、比較はできないが、17年で1056億円を投じた西部開発事業。完成から40年余が過ぎた。官民一体で知恵を絞り、商工センター地区が一層元気になる仕掛けを講じてもらいたい。
今年の本屋大賞に、阿部暁子さんの著書「カフネ」(講談社)が決まった。全国の書店員が投票し、いま、一番売りたい票を集めた。先細る出版業界を現場から盛り上げようと2004年に同賞を創設。ベストセラーが約束される芥川賞や直木賞に匹敵するほど話題を呼ぶようになった。
広島新駅ビルの商業施設ミナモア3階西館に廣文館(中区中町)が新スタイルの書店「ブック ギャラリー コウブンカン」を出店した。店頭を行き交う人を誘うように売り場の中心にギャラリー空間を配し、周りを本が囲む。駅最寄りの書店などではコンパクトなスペースに話題の新刊やビジネス書、学習図書などがバランスよく並ぶが、あえてギャラリー空間を設け、勝負に出た。〝毎日イベント〟を掲げ、多くの人が立ち寄り、集い、出会いが生まれる書店を目指す。丸岡弘二取締役COOは、
「本離れが進み、このままでは厳しいという危機感があった。どうすれば本屋に立ち寄ってくれるのか、本屋の書棚を巡りながら目当ての本、読みたい本を探す人が戻ってきてくれるのか。ここ数年、ずっと考え続け、これからの時代が求める本屋のあるべき姿を追い求めてきた」
中区の金座街本店を閉め、駅ビルのミナモアへ出店を決断。その時からギャラリーを併設する本屋の夢が具体化へ歩み出したという。
「本を離れた人、本になじみの薄い人に本を好きになってもらうために、本屋に何ができるのか。本来、みんなが持ち合わせている知的好奇心を刺激しながら専門的な知見を豊かにしてくれる書籍の品ぞろえに努め、広島の底力を引き出し、元気にする役割を果たすことができれば、とてもうれしい。廣文館のブックギャラリーが、地元で活躍する作家やクリエイターを応援する晴れ舞台の役割を果たし、起業家を応援するスタートアップの踏み台となれるよう、さまざまな企画をぶつけていきたい」
前身の広文館は1915年11月に創業し、48年に法人改組。2018年11月に分割設立された廣文館に事業を譲渡し21年11月、京都を拠点に全国展開する大垣書店グループとして再スタートを切った。現在、広島の商業施設内中心に11店舗を擁し、学校や企業・団体向けなどに卸売りも手掛ける。
「書店員はみんな本が好きです。しかし日々の作業に追われると初志を忘れがち。経営が厳しい中、辞めずに頑張ってくれた書店員はリスタートの意味をしっかり受け止めている。〝私たちは本が好き〟という廣文館の信条を再確認するとともに業務の効率化、合理化を図って原点に立ち戻る環境が整ってきた」
大垣書店は全国に50店以上を展開。ギャラリーなどを設けた複合型は麻布台ヒルズ店、京都本店、堀川新文化ビルヂングなど4店。グループ代表の大垣守弘さんは、
「本は文化芸術、スポーツ、ビジネス、学術などあらゆる分野に広く、深くつながる。さまざまな企画があるギャラリー空間に触発され、新たな発想を広げてもらいたい」
ネット販売や電子書籍が普及する一方で、書店の減少に歯止めがかからない。2月時点で全国の書店数は1万471店(日本出版インフラセンター集計)。10年前に比べ489店減った。県内は昨年12月で219店。10年前に比べて118店減った。巻き返しを期待したい。